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「ノービスレーサー激走の記録館」先日、1988年の筑波選手権第3戦のエントリーリストがアップされていました。
今では考えられない程のエントリー台数で、
N125(現行で言うとJ-GP3ですかね)が339台、
N250(TZやRS250のレーサークラスね)でも272台。
この台数が決勝32グリッドを目指して予選を走るんですよ(笑
たしか予選が木曜日位からだったんじゃないかな~と思うんですが、
自分より先にレースをしていた知り合いが平日休んで予選を走って
土日は働いていたっていうから、きっとその人は予選落ちしてたんでしょうね。
っていうかほとんどの人が予選落ちですよ(笑。
1988年というと創設者が’87RS125で富士スピードウェイを走り始めた年で、
スポーツ走行の予約を取るだけでも大変でしたね。
(富士は当時は往復はがきで予約を取ってましたね~)
筑波のパドックに行くと、眼が逆三角形のど根性な人たちがいっぱいで、
声をかけるのにも勇気がいりましたね~(わはは)
まっ、そんなことはど~でもい~んですが、
エントリーリストを見てあらためて思ったことがひとつあるんですよ。
エントリーしているライダーのほとんどが20代前半のライダーですよ。
N125クラスに限っては見落としが無い限り30歳以上のライダーは1人だけ。
それと18歳未満のライダーもいませんでしたね。
ここに、現代のロードレースに対する考え方の違いがあったような気がします。
18歳未満のライダーがほとんどいないのは、
現在のように昔オートバイレースをしていたとかそういうことに興味のある親がいなかったこと。
まだまだ
3ナイ運動が当たり前の時代だったしね。
だってこの頃走っていたライダーが今親父になってるんだよね~。
レースは自分が汗水流して働いて得た金でするものだ、と誰もが思ってた時代だし。
そしてもう一つ、30歳以上のライダーがレーサークラスにほとんどいないってこと。。
自分もそうだったけど、30歳が一つの区切りのような風潮があった気がするんだよね。
20歳の若者がレースを継続していくにはお金持ちでない限り、借金(ローン)が発生するよね。
N125の場合、新車で購入して2年周期でマシンを変えていくと仮定しても
スペアパーツやタイヤにかかる費用は驚くくらいの金額になるはず。
そうすると、これ以上やっていたら大変なことになるぞ~って時期が必ず来るんだよね(笑
だからその間に真剣にすべてをかけて取り組む。
金銭的に継続して30過ぎまでレースをできない。
そんな感じじゃなかったかな。
だから、木曜日予選で予選落ちして決勝の土日は仕事っていうの半分当然だった。
本当だったら決勝日に速いライダーの走りを見たいっていうのが普通だけど、
次のレースの為に金を稼ぐ。
コレの繰り返し(笑。
あの当時いろんな思いで走っていたたくさんのライダーがいたわけだけど、
ほんと人生の一部をすべて(金・生活全部・・笑)かけた日々だったに違いないと思うんですな。
速くなって大きな舞台で走った人、万年地方選ライダーだった人(あっ、俺か・・・笑)、
結果もいろいろだけど、今考えるとみんな良い思い出になってるんじゃないかな。
それでね、何を言いたいかというと・・・なんだっけ。
そうそう、このサイト↓
「ノービスレーサー激走の記録館」あの頃を生きたレーサーにお勧めです(わはは~~
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